蒲鉾雑学

蒲鉾の歴史

昔は、竹輪状のものを「蒲鉾」と言っていた。そして、その形が蒲の穂に似ていた事から「蒲鉾」とよばれる様になったとされています。
後に板の上に成形した「板蒲鉾」が出来、区別のために「竹輪蒲鉾」とよび分けていたが、元々の方は「蒲鉾」が無くなり「ちくわ」となり、板蒲鉾は板がはずれて「蒲鉾」となった。
文献では、1115年の宮中に出された物が最古とされいる。

 

草津蒲鉾

草津蒲鉾のはじまり

文政時代(1818)の頃、草津港に個人の魚問屋として、越智、大野屋、山口屋、井口屋などがありました。それら問屋の人たちは、草津港に集まってくる漁師相手に荷を受け、これを各小売業者に卸して商売をしておりました。しかし、毎日、仕入れた魚がすべて売れるわけではありません。当時は、売れ残った魚の処理方法として、魚に塩を加えて塩干しにするか肥料にするしか方法がありませんでした。

たまたま草津浦は早くから「牡蠣」の生産地で、遠く大阪地方へ牡蠣船で牡蠣料理を出し、また、料理の一部として魚の刺身、煮付け、酢の物などの他に、魚肉を団子にし、この団子に塩を加えて煮、焼きする加工法を伝えていました。

包丁で魚肉をとり、塩を加えて練った物を竹べらで経木に盛り、炭火で加熱して焼き上げ“おれんかまぼこ”と銘づけ、商品として市場に出して販売し、残魚の始末をするようになりました。
これが草津蒲鉾のはじまりとされております。

明治20年頃、ようやくこの蒲鉾作りを生業とする者があらわれはじめましたが、天候や汐の干潮などで魚の水揚げ高は一定せず、また、保存の面でも困難なこともあり、ほとんどが鮮魚の行商の兼業でありました。
当時は、出来上がった蒲鉾を涼しい軒下につるしたり、井戸の中につるして保存するような原始的冷凍法でした。しかし、大正の初期になると氷が発明され、保存することが楽になりました。また、それと同時に鉄道便で他の地方から、底引魚が入荷してくるようになりました。そしてさらに、遠洋漁業も発達し、原料となる魚が大量に入荷するようになってきて、蒲鉾専門業者が次第に増加してきました。

 

製造工程の変化

明治45年頃の製法は、すべて手作業で生産にも限度がありました。また、原料魚も入手困難な時が多く、夏場はほとんど休業状態でした。原料魚の入荷不足は、自然値上がりとなるため、製品コストを維持するために澱粉を加えてバランスをとっていました。

製造方法は、他の地方から職人が入ってくるようになると、技術が進歩してきました。しかし、原料の処理、採肉、粉砕、練り合わせ、板付け、蒸しあげなどは依然として原始的な包丁、すじ抜き、臼つき、臼練りで、加熱方法も薪、木炭などを使い、蒸し釜は大釜の上に蒸篭をおいて蒸すぐらいの工程で、あまり変化はありませんでした。

大正5年(1916)頃、音堂金五郎氏がアメリカから手動によるミンチを持ち帰り、業者の岩本氏がすじ抜きに試用したのをきっかけに、製造工程が一大進歩しました。
蒲鉾製造業は家内工業で、しかもかなりの重労働であり、生産にも限界があったので早くから進歩的な機械化が望まれておりましたが、いろいろな事情で遅れていました。

翌年の大正6年頃、足踏式スクリュー型擂潰機(らいかいき)に続いて、電力による擂潰機、粉砕機が発明され、製造工程も改善されてきました。そして、これらにつれ生産も急速に増加しました。

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